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京都の理学生が日常で感じた様々なことを書き連ねる場です。

そろそろ何の代理人になるか決めないと。

皆様どうも、お晩です。平成→令和の瞬間は見事に寝ていました。(2019/4/30 14:30就寝→2019/5/1 00:03起床)
 
正直に申しますと、インスタのストーリーに令和になる瞬間ジャンプの動画とか、「令和ウェーイ!!!」みたいな年越しノリの動画とか上げてた人達を心の7%くらいの領域でバカにしています。(先に謝っておきます。ごめんなさい。)
 
 
今回はGWということもあり、少し重めな投稿にしようかなと。
 
最近、寺山修司の『戯曲 さらば、映画よ』を読み直す機会があったわけですよ。
そんで、1年くらい前にマーク・トウェインの『人間とは何か』も読んだわけですよ。
この2冊、道のりはかなり違うけど、行き着く先としては同じことを言っている気がするんですね。(しかしなんだが、寺山はハンフリー・ボガードが分からん。トウェインは若者が反抗的すぎる。ここがこの2冊の難点。もちろん異論は認める。)
 
 
この2冊の言いたいことは、「人はみんな、外的要因の媒介としてのフィルターの役目しか果たせないから、他人の目とか気にせずに自分のやりたいようにやりなよ。」的な感じじゃないかなと思う。(後半はかなり自分の解釈で、内容的にはどうでもいい。)
 
『戯曲 さらば、映画よ』の中年の男曰く、人はそれぞれで何かしらの「代理人」業務を請け負っているらしい。(詳しく説明するのがめんどくさいので、興味のある方は読んで。)
『人間とは何か』の老人曰く、人は自分で何かを生み出すことはなく、外的刺激に対して自分の作りに従うだけの「機械」らしい。(同上。)
 
 
要するに、人はみんなただの役者説なわけだ。
 
当たり前のことだが、家族でいるとき、友達といるとき、職場でいるときのその人の様子はそれぞれ違うはず。もちろん、僕自身も大学でのキャラとバイト先でのキャラ、実家でのキャラを無意識のうちに演じ分けている。…はず。でも、それらは「無意識」だから意図したものではなくて、自分が育てられて得た「作り」に応じたもの。
 
 
では、僕は誰の「代理人」なのか。どの程度の複雑さを持った「機械」なのか。そんな感じのことを15歳くらいから考え始めて既に5年が経過。
あぁ、マジ人生ムズすぎ…。
 
 
ついでにこの記事の執筆についても訳分からなくなってきた。
 
文字に起こしながら何かを考えるのは、線型代数学並みに難しい。(線形代数学とはマジで一生友達になれないと分かった。)だから国語も一番苦手なわけだ。
 
僕は対話形式じゃないと何かを考えられない。(自分の考えに対して反論しかしない人間を頭の中に2~3人用意してお喋りする感じ)
 
 
どんどんテーマから脱線していくので、このあたりで記事書くのをやめて、この記事で言いたかったことをまとめると、
 
 
そろそろ就活始めないといけないから、何の「代理人」業務に就くのかを考えないとなぁ…。
 
 
っていう話でした。GWも終盤戦に突入し、令和時代がスタート!!!
遊ぶ人は全力で遊びましょう。僕は全力で働きます。
 
では、お休みなさい。